まるで、黒い海に散りばめられた真珠の粒のようだった。

 ひとつひとつが眩い輝きを放っていて、数え切れないくらいにいっぱいの空。
 とても綺麗だと思った。ずっと見続けていたいと思った。
 このまま時間が止まってしまってもいい――そんなことまで考えたくらいに。
 そんな満天の夜空を見上げ、少年はただ心奪われる。隣に佇む少女もまた……同様に。
 きっと、握っている互いの手の温かさと同じように、この空は彼らの心に、魂に深く刻まれていただろう。

 今まさに星々の集い≠ヘ……少年と少女の、世界の全てだった。

 だから少年が手を引かれたことに遅れて気付いたのも、仕方ないことだったのかもしれない。
 振り向けば、少女の頬を一筋の雫が伝っていた。
 それは悲しみではない、歓喜の涙――ややあって、少女が口を開く。

「……ありがとう……」

 その震えた声は、ただただ純粋な感謝は、少年の胸を強く打つ。
 涙の粒は星々と同じように綺麗で、彼の内に潜めていた決意を促すには、充分に過ぎた。

「……ねえ、君に伝えたいことが、」

 言いかけた瞬間、少年がある違和感に気付いた。

 少女の貌が、ぼやけて、見えないのだ。
 泣いているのは解っているのに、それが誰かがわからない。

「――あ……」

 絶句する。
 そして、視界が反転し……少年の世界に亀裂が走り、暗転した。

序章『始まりの南風』

 ――最初に感じたのは、ゆらりゆらりと上下に揺られる、不安定な感覚。
 その緩慢な揺蕩いで五感が少しずつ目覚め始めていくのを、リゲル・カナツキはおぼろな意識の中で理解した。
 お世辞にも、あまりいい寝覚めとはいえない。
 何故ならば、いま彼が身体を休ませているのは、とある小さな漁船の一室。それも本来は漁に使われる用具置き場であったため、およそ人ひとりが寝泊まりするにはあまりにも雑多で不親切すぎたからだ。
 そんな場所に一週間住み続けられたのは、我ながら大したものだと彼は思う。……疲労と倦怠感の抜けきった安眠だったか、と問われれば流石に首を傾げざるを得なかったが。
 未だ眠気は残るが、漁船特有の乾いた磯の香りが鼻腔を衝いてくるため、仕方なくリゲルは重い瞼を開く。
 ろくな光源などない用具置き場は、目覚めた人間の時刻を判別しにくくしていた。
 ただ一つ、出入り口である扉には小窓があったため、その淡い光で少なくとも今は夜でないと判断できる。
 今日の日付は――記憶が確かならば、白蛇ノ月15日。あれから一月と少し、という計算になる。
 さてどうしたものか、とリゲルは船の主から与えられた毛布一枚にくるまり、思案する。
 正直、もうしばらくは身体を休めていたいが――。
 そう考えていたとき、扉を叩く固い音が、眠気という名の泡を無慈悲に破裂させる。

「リゲル様、お目覚めですか」

 ひどく艶めいた声に名を呼ばれ、リゲルの顔が難色に歪む。

「……いま起きたばかりだ、ミラ」

 黙秘や居留守を使う間柄ではない――自身を強引に納得させて、気怠げに返す。
 腹を括ったかのように首を振って、リゲルは毛布を払って重く立ち上がった。

「開けても?」
「……ああ」
「それでは、失礼します」

 向こうが了解を得るや否や、木製の扉がゆっくりと開かれ出す。
 錆びた金属の蝶番が軋り、仄暗かった船室に眩いばかりの光が満ち始めていく。

「――っ」

 輝きの鋭さに、思わず手で顔を覆いかけたリゲルは、その中に浮かんだ影を見る。
 自身よりも頭半分ほど低めの身長に、腰まで伸ばされた真っ直ぐな紫の髪。
 華奢で長い手脚と、線の細い体躯でもよく解る、女性特有の豊かな膨らみを帯びた輪郭。
 そして、男と呼べるモノなら誰もが目を奪われずにはいられない、あまりにも端麗な美貌――。
 ミラと呼ばれたその女は、差し込む朝焼けの中でにっこりと微笑んだ。

「おはようございます、リゲル様。今朝のご気分はいかがでしょうか」

 柔らかなその調子に、しかしリゲルは辟易とした面持ちをする。

「……あまり良くはない。そんなことは、お前も理解しているだろう」
「それは失礼いたしました。確かに、ここ数日の船旅に加え、このような場所で過ごされたのですから致し方ありませんね」

 くすくすと、謝罪しつつミラは笑う。
 口元に手を寄せた態度は非常に知的かつ妖美ではあったが、リゲルにとっては見慣れたものだった。
 この女は、解っていてリゲルの気分を問うたのだろう。あからさまな玩弄の意思が、穏やかな口調の裏に感じられる。
 相変わらず、何を考えているのか読めない――ミラ・ケーティというこの女を、リゲルはどうにも苦手としていた。
 常に笑顔を絶やさず、しかしそれ故に本心を見透かさせない。
 半年近くの付き合いでそれを理解しているからこそ、彼女には勝てる気がしなかった。
 今回もまた、そんな結論に至って溜息をつき、視線を交わす。

「……エルナ様は?」
「外の空気が吸いたいと、甲板に。それからあと一時間ほどで到着する≠ニ、ゲンマ様から言伝を預かっております」
「そうか……わかった」

 先程とは真逆の、安堵の吐息がリゲルの口から漏れる。
 ようやく、ここまで来たのだという実感が胸に込み上げてくるかのようだった。
 これから降り立つ地のことを思うだけで、報われる気分である。疲労や眠気など吹き飛ぶ勢いだ。

「俺も行こう。世話になった挨拶もしておきたい」

 言いつつ、部屋から出ようと歩を進めた、そのとき。

「……何をしているんだ、お前は」
「いえ、リゲル様のご気分が優れないようでしたので、と」

 告げたミラは、にっこりと笑みを作ったまま右手を差し出している。
 女性特有の、細く長い五指――そのすべては黒い手袋に包まれ、リゲルの手を求めるように開かれていて。

「……」

 数秒、それを凝視した後、彼は無言のままミラの脇を素通りした。

「つれませんね、リゲル様は」
「お前の気持ちはありがたいが、そこまでしてもらうほどじゃない」
「そうですか。それは失礼いたしました」

 背中からかかる声は、別段残念がる調子ではない。
 しかし、あくまでその笑顔と自分のペースを崩さぬまま、自分の後を付いてくる女の足音と存在感に、どことなく奇妙な遣り辛さをリゲルは感じていた。


     ◆  ◇  ◆


 甲板までは、歩いて一分もかからない。
 足を踏む度、危うげな軋みを上げる階段にいささかの不安を覚えることもないだろうと思いながら、上りきった瞬間にリゲルの視界はひとつの色に染まった。
 初夏の空は、その八割が澄み渡る快晴の青。
 残り二割の白色である雲がまだらに混じり合い、その雄大さに、彼は思わず目を見開かずにはいられなかった。
 この漁船を一時の住まいとしていたとはいえ、やはり目覚めの青空を見るのは清々しい。
 だが何より、大空以上にリゲルの心を奪ったのは――果てなどないと言わんばかりの大海原だった。
 幼い頃から海というものはリゲルにとって馴染みが薄く、だからこそ無限に広がる水平線や荒波は、何度見ても飽きることはない。

「リゲル様、後がつかえていますので」
「あ……すまん」

 思わず入り口で棒立ちになってしまい、背後からの囁き声でふと我に返る。
 瞬間、甲板の前方で潮風を受けている人影と、不意に目が合った。

「リゲル、ミラ!」

 耳朶に響いた声は、柔らかく明るい。
 若干先端が巻き気味の、ミラとほぼ同じ色合いの髪を風に吹かせていた少女が、晴れやかな笑顔を向けて二人に手を振っていた。

「おはようございます、エルナ様」

 リゲルに続いて甲板に出たミラが、恭しく一礼する。リゲルもそれに倣って小さく会釈したとき、エルナと呼ばれた少女は二人の眼前まで歩み寄っていた。

「……リゲル? どうしたの、なんだか気分が悪そうだけど」
「大丈夫ですよ、エルナ様。長旅でお疲れですし、リゲル様はもともとこういうお顔ですので」
「……」

 人の意見を無視して勝手に話を進める女に、肩から脱力する。
 自分の仏頂面は否定しないが、それでも妙に納得がいかない思いを、リゲルは無理やり飲み込んだ。

「エルナ様も、体調はお辛くはありませんか?」

 問われた少女の顔は、確かに微かな疲労の色が見て取れた。
 だが、それを抑えるようにかぶりを振り、

「……大丈夫、長かったけど、ようやくここまで来たんだもの」

 はっきりと、強い意思の籠もった声で二人に告げた。
 纏う衣服はそこらの町娘と変わらない、安手の簡素な布で出来たドレス。しかし、その佇まいと物腰から醸し出ている気品は、少女をただの町娘と呼ぶには些かの語弊があった。
 エルナと呼ばれたその娘は気丈に微笑んで、舳先の方を振り向く。リゲルもミラもそれに倣い、水平線へと目を向けて……ぽつんと、紺碧の海原に浮かんでいるモノを、彼らの視界は捉えていた。
 島、である。
 無人島というわけではない。何故なら、これから向かうべき場所は南海の島国だと船主から事前に聞いていたからだ。
 だがそれでも――リゲルたちの視線が釘付けになっていたのは、島の大半を覆う新緑。
 島から悠然と生え伸びている何か≠ェ、彼らの興味を一心に引いていたからだ。

「リゲル様。果たしてあれ≠ヘいったい何なのでしょう」
「なぜ俺に振る」
「私たちの中で一番、眼が良さそうだと思いましたので」

 ……確かに、ミラの言うとおりだ。
 だからといって、細部まで判るものではないのだが。
 内心で溜息をつき、リゲルは両の瞳に感覚を集中させて――それを、凝視する。
 怜悧な目つきが細まり、焦点を結んだ像を、脚色せずリゲル口はにする。

「……樹、か?」

 少なくとも、呟いたリゲルにはそうとしか見えなかった。
 島がどれほどの面積を持つのかは想定しにくいが、この遠目から見ても、それなりの大都市を抱いているのは想像に難くない。
 しかし、仮にもしあれが島から生え伸びている樹≠ナあるのだとしたら、リゲルの知る限り、自然界にそんな巨木などあるはずがない。
 建造物と見間違えた可能性も考えたが、むしろその方が非現実的だ。

「なるほど。樹、ですか」
「ああ。ミラ、お前は彼からなにか聞いていないのか?」
「いいえ。目的地については、こちらからは深く尋ねませんでしたから」

 確かに、その通りだ。
 なにせ船主にはあらかじめ謝礼を渡すとともに、こちらの素性を一切詮索するなと言い含めてあるのだから。
 これまでも、ずっと自分たちは一つの街に長く滞在しておらず、情報収集を終えればまた次の街へ、という転々とした旅を続けてきたのだ。
 せいぜい、船主とは無聊な日々を紛らわすために、簡単な世間話をしたり――。

「おう何だ、お前さん方、アレが知りたいって?」

 すると、今度は背中からかかる野太い男の声。
 噂をすれば、といったところか。

「あら、ゲンマ様」

 ミラの声に続いて振り向くと、どしどした足音を甲板に響かせて、横手からひとりの男性が現れた。
 年期入りの眼鏡を掛けた、白髪の壮年――名はゲンマ・ボレアリス。
 この小さな漁船の主であり、自分たちを目的の島まで乗せていく人物だ。
 そんな彼とふと目が合い、リゲルがエルナの時と同様に会釈する。

「おう、兄さんもおはようさん。すまねえな、一週間もあんな汚ねぇとこに放り込んじまってよ」
「別に、構いません。彼女たちに可能な限り快適に眠ってもらえるなら……」
「カカカ、言ったなぁ。男だぜ兄さん」

 豪快に笑うと、力強くゲンマはリゲルの肩をばしばしと力強く叩く。
 やや痛みは感じたが対して気にするほどでもなかった。

「あの、少しだけ質問いいですか」
「ん? ああ、要はアレが何なのかってことだよな、嬢ちゃん」

 こくりとエルナが頷く。
 それからややあって、ゲンマはリゲルたちと同じものを……島の中心に高く聳え立つ樹≠見つめながら、語り始めた。

「なあ姉さん方、『世界樹』って言葉は聞いたことがあるかい?」
「いいえ」
「……申し訳ないが、俺も記憶にない」
「おう、そうか。俺ぁ結構有名だと思ってたんだがなぁ」

 言いつつ、懐から細長い棒状の物――それが煙草だと理解したのは、同じく取り出したマッチ燐寸に火を点け、灰の焼ける臭いがリゲルたちの鼻腔に届いてからだった。
 吸気とともにその先端が赤く点り、吐き出した煙が風に乗って消えるのを見届けて、続ける。

「あの島……海都アーモロードじゃ、そう呼ばれてんだ」
「……あの巨大な樹≠ェ、か?」
「そういうこった。しかし兄さんも良く判ったな、アレが樹だってよ」
「すごい……リゲル、本当に眼が良いのね」
「ええ。まさに鷲のごとき炯眼をお持ちですから。ねえ、リゲル様?」
「……」

 二人分の賛辞、それはまだいい。
 しかし、直後ににこりとしながら付け加えられた一言には、素直な反応を返しにくくなる。
 ミラの華美なおだてには、どう言い返しても笑顔であしらわれるのが、本当のところだったからだ。

「海都アーモロード。それが、これから私たちの行く地なのですね、ゲンマ様」
「ああ。だが島に着ける前にちょいとばかし尋ねたいことがあってな……ていうか、忠告だな」

 紫煙を吹かせた男に、ミラとリゲルの目が細まる。

「忠告、ですか」
「ああ。正直、最初は俺も戸惑ったもんさ。何も聞かずに遠くまで乗せてくれ≠ネんて言われちゃあな……まあ、姉さんから既にもらうべきモンはもらっているし、ちょうど島に戻る頃合いだったから断る理由は薄い、と考えてたが」

 そこまで言って、ゲンマの放つ雰囲気がそれまでの陽気で豪放なそれから……少しずつ、怜悧なものへと変化するのを、リゲルは感じ取る。
 果たして次の言葉は、ひどく厳かなものだった。

「正直、あんたらは何が目的なんだ? 観光目的にしちゃあ、あそこまで切羽詰まった要求はおかしい。それに何より、兄さんと姉さんの立ち振る舞い……堅気じゃあ、ないだろ?」

 リゲルへと目を向けた、その表情は険しい。
 壮年特有の皺が走った表情、そして語気には僅かに威圧感すら感じられる。
 この一週間、彼のことは気さくな漁船の主だと思ってはいたが……どうやら、認識を少しだけ改めなければならないようだ。

「……だったら、どうだと」
「リゲル様」

 ミラが制止の声を上げるが、リゲルもまた退かない。
 先程まで愛想の良かった男はしかし、守秘義務の中で可能な限り彼らを探ろうとしている口ぶりをしていたからだ。

「兄さんの荷物は、乗船の際に検めさせてもらったが――なかなかどうして、かなりの業物じゃねえか」

 そう語る言葉の意を察し、リゲルが目を眇める。
 彼の唇は真一文字に引き結ばれ、緩むことなく緊張を走らせていた。

「ありがとうございます。……お目が高いですね、ゲンマ様」

 横からミラも、均衡を崩さぬように相槌を返す。もちろん当人の意見は関係なくだが。
 ともあれ、こんなにも爽やかな海の上。だが、男ふたりの間に満ちる空気は、剣呑とした緊張感で張り詰めていた。
 均衡は、壮年の船主から破られる。

「男ひとりに女ふたり、そのうえ素性は訊くなときた。それなら海都で何をするのかと考えたら……あんたら、冒険者でもやろうってのか?」
「……俺たちが、か?」
「ああ」

 肯定したゲンマが発した言葉を、リゲルは己の内で反芻する。
 冒険者――己の優れた武技だけを頼りに、危険な依頼(クエスト)を受けて報酬を受け取る自由業。
 それはひとえに、リゲルたちにとってはおよそ無縁のものであった。

「違ってたらすまねえ。ただ、もしその通りなら……悪いこたぁ言わねえ、やめた方が身のためだ」
「……どういう、ことなんですか?」

 その空気に耐えられなくなったかのように、エルナが追求する。

「海都じゃあ、昔から近隣諸国に触れが回ってな。それで冒険者連中が集まっては、挑戦してんのさ……あのデカブツに」

 すると、リゲルから視線を外したゲンマが、再び島の方へと顔を向けた。

「それは、先程話された世界樹≠フことでしょうか」

 尋ねたミラに、彼はもう一度煙草を燻らせながら、告げる。

「ああ。正確にゃあ――世界樹の迷宮≠チて言うのさ」